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金子の曾祖父の代から経営しているという「カネコ古書店」は、千駄ヶ谷から電車でちょっと移動した先の商店街にあった。
買い物にいそしむ奥様方をメインに、なかなかの人波で賑わっている。全長一五〇メートルほどのアーケード街で、典型的な地域密着型の店舗がつらなっている。大型ショッピングセンターなどに押されて、こういった商店街は全国的に衰退しているというが、まだ元気なところは元気のようだ。
ストリートの中ほどで金子は立ち止まった。
「ここです。さ、どーぞどーぞ」
軒にはレトロな書体の看板が飾られ、入り口からはずらっと林立する本棚が見えた。いかにも老舗古書店という外観だった。
お客を招くことがあまりないのか、金子は嬉しそうに軽やかなステップで店へと入る。後に続いて入店すると、年月を経た古い紙の匂いが肺の中に広がった。
「……こういう匂い、嫌いじゃないわ」
「俺も。なんか落ち着くよな」
「古書は人の歴史が詰まったものですからね。自然と、温故知新の心が湧き上がってきます」
すうっと深呼吸する紗津姫。
歴史や文化に思いを馳せるときの彼女は、ひときわいい顔を見せてくれる。この日本という国に生まれて本当によかったと、心の底からありがたく思っている。そんな姿を、尊敬せずにはいられない。
「おじいちゃん、いるー?」
金子が呼びかけると、カウンター奥の間から白髪の老人がのそっと姿を見せた。孫娘とよく似た丸い銀縁眼鏡をかけている。
「おう、由良。将棋を指しに行ってたんだって?」
「うん、それで将棋部の人たちに来てもらったんだ」
「あんたがアマ女王の神薙さんか。孫がよく話してくれるよ。ぜひ一度お手合わせしてもらいたいなあ」
「はじめまして。おじいさんも将棋を?」
「俺らの年代なら、だいたい将棋ができるもんさ。由良にも子供の頃に教えてやろうとしたんだよ。でもさっぱり興味を持ってくれなくてな。今になっていきなり始めたのが不思議なんだが」
さすがに金玉に惹かれて始めたということは言っていないようだ。
「おじいちゃん、昔の将棋本ってあったよね? ちょっと見せてくれない」
「将棋本じゃカッコ悪い。棋書っていうもんだ」
こっちだ、と老人は隅のほうへ案内する。
本棚ひとつが丸々将棋のコーナーとなっていた。背表紙には、以前に紗津姫から教わった大正や昭和の大棋士の名前がちらほら見られた。
「世の中、将棋の古書専門店なんてのもある。そういうのに比べたらちと劣るが、うちの品揃えもなかなかのものだと思うぞ」
棚から引っ張り出された書物は、触るのもはばかられるような古びた代物だった。製本技術などという概念はほとんどなかったであろう時代の、本という体裁を整えたにすぎないような紙の束だ。
「嘉永六年、一八五三年に出された天野宗歩(あまの・そうほ)の『将棊精選』だ。上巻中巻下巻と揃っているぞ」
「天野宗歩ですか!」
紗津姫は頬を緩ませ、大事なプレゼントを受け取るように、丁重に両手に取った。
「すごい人なんですか?」
「幕末において棋聖、実力十三段と呼ばれた、伝説の棋士です。現在の七大タイトルのひとつ棋聖戦は、彼に由来しているんです。歴代最強の棋士は誰かという問題に、必ず名前が挙がるほどの人物ですよ。この将棊精選は当時の駒落ち定跡をまとめたもので、大変評判が高かったそうです。私も名前は知っていましたが、実物を見たのは初めてで」
そんな大昔の棋士の知識もある紗津姫のほうが、よほどすごいと思った。
紗津姫がそっとページをめくるが、棋譜らしい漢字の連なりがびっしりで、局面図も何もない。来是は一目で読む気をなくしてしまった。依恋も微妙な表情だ。紗津姫だけが子供のように嬉々としてじっくり眺めている。
「確かにアンティークとしての価値はあるんでしょうけど、今でも通用するってわけじゃないんでしょ?」
依恋の問いに、紗津姫は頷く。
「そうですね。今ならもっと洗練された定跡書があります。江戸、明治、大正、昭和、そして平成と将棋の技術は進化し続けてきましたから。だけど、先人たちの大変な努力と研究があってこそ、私たちはいい将棋を指すことができるんです。書かれていることの内容はもちろんですけど、その姿勢に敬意を払いたいんです」
「……ふうん」
依恋も将棊精選を手にする。華やかなルックスの彼女にはあまりに不釣り合いな、百五十年以上も昔の古書。
しばらくじーっと見つめていたが、やがて。
「おじいさん、これいくらかしら?」
「上中下、合わせて三万五千円だ。学生に買えるもんじゃないよ」
「買ったわ」
依恋は何事もなさそうな顔で財布を取り出す。他の全員はあっけにとられていた。普段冷静な紗津姫でさえ、驚きを隠そうとしない。
「買うって、本気かね?」
「ええ、カードは使えるんでしょう?」
「お前、マジか? 買ってどうするんだよ」
「別にどうもしないわよ。将棋部に飾ってみたいって思っただけ。内容を参考にするわけじゃないけど、棋聖っていう肩書きは壮大で気に入ったわ。側に置いておけば、なんか強くなれそう」
「依恋ちゃん、自分のポケットマネーで買うんですか?」
「あたしのっていうかパパのだけど。気にすることはないわよ。月に十万円以内なら自由に使えって言われているから。若いうちにお金の使い方を学んでおけってね」
まさに金持ちならではの芸当だ。来是はこの幼馴染の財力と決断力に、ほとほと感心してしまった。
しかし、側に置くことで強くなれそうというなら、将棋部ではなく自分の家に置いておけばいいはずだ。
……おそらく依恋は、先人に敬意を払いたいという紗津姫の考えに共感したのだろう。そして、紗津姫がいつでも手に取って見られるようにした。
依恋は認めないだろうが、紗津姫と共感することで、彼女に近づきたいと思っているのだ。将棋指しとしても、女性としても。
そう思うと、来是は少し愉快だった。自分より上の女の子なんていないと放言してやまなかったあの依恋が、紗津姫の前では素直な後輩になりつつある。
「んふふ、碧山さんがうちの常連になってくれたら嬉しいね!」
「そうだなあ。次はもっと価値の高いのを仕入れるとしよう」
思わぬ売上に恵まれ、金子は祖父と一緒に喜んでいた。
「せっかくだから上がってお茶でもどうかね? そんで神薙さん、ぜひ一局」
「ええ、喜んで!」
「ついでに私のコレクションも……」
「結構だっての!」
賑やかになってきたところで、来是は背後の気配に気がついた。
振り向くと、ひとりの少女が立っていた。
年頃は自分たちと同じ。切れ長の瞳と少し癖のあるショートヘアーが特徴的だった。口元を真一文字に結んで、クールな眼差しを向けてくる。
来是はなぜか、鋭いカミソリを連想した。
「おや、また若いお客さんだ。今日は珍しいね」
「こちら、将棋の本は扱っていますか」
「ああ、いろいろあるよ。何を探しているんだい」
「大山康晴全集」
大山康晴とは将棋の歴史上、もっとも偉大な棋士として知られる昭和の名人だ。将棋会館の入口にも立派なレリーフが飾られている。
そんな名前を口にするということは、紗津姫と同じく――。
「お嬢さんも将棋を指すのかい? ますます珍しい。大山全集はえーと、三巻だけあるね。他はこの前に売り切れちまった」
「その三巻を探していたんです。よかった」
そのとき、彼女は紗津姫と目を合わせた。
ゆらりと、その瞳の奥で何かが揺れた。
「神薙紗津姫」
「出水(いずみ)さん」
え、知り合い? 唐突な事態に、来是の頭は軽く混乱した。
「お久しぶりです。まさかこんなところでお会いするとは」
「それはこちらの台詞。何か買ったのかしら?」
「買ったのは後輩なんですけど、天野宗歩を」
「へえ、面白いわね」
しかしその表情は、いい意味での「面白い」ではなかった。自分を一段上に置いて、見下ろし哀れむような……。
「昔の棋士で参考になるのは、大山升田くらいよ。いくら棋聖と呼ばれていたって、今じゃせいぜい奨励会レベルじゃないの?」
「な、なんなのよあんた! いきなり現れて失礼な」
大金をはたいて購入した棋聖の書をバカにされたと感じたらしい。依恋は今にも謎の少女に食ってかかりそうだった。
――それにしてもこの子、どこかで見たような。来是の脳裏に、かすかなイメージが浮かび上がるが、どうにもはっきりしない。
「こちらは同じ部活の仲間かしら? 相変わらず、ごっこ遊びをしているのね」
「楽しいですよ。あなたも将棋部に入ってみては?」
「ご冗談。そんな生ぬるい世界」
どこまでも不遜な少女と、ゆるやかな流水のように受け流す紗津姫。来是はとても口を挟めなかった。
そうこうしているうちに、少女は目的の品を購入する。まるで百科事典のような大きさのそれを小脇に抱えて、さっさと踵を返した。
「じゃあね。次は当日に」
振り向きもせずにそう言って、彼女は退店していった。
その途端、依恋の鬱憤が爆発した。
「な、な、な、なんなのあいつはー! ごっこ遊びですって? あんな傲慢そうな女、初めて見たわ!」
依恋とちょっと似ているなと思ったが、決して口には出さなかった。
「いやー、びっくりしました。とても女の子とは思えないオーラを発散していましたよ?」
「しかも大山全集とはな。相当なやり手じゃないかね」
そう、紗津姫との会話からも推察される。
間違いなく彼女は、将棋の実力者だ。それも、紗津姫に匹敵するほどの。
「先輩、あの人知り合いなんですか? ……俺もどこかで見た気がするんですけど」
「それはたぶん、ネットの写真で見たんだと思いますよ」
そして紗津姫は、あの少女の正体を明かす。
「女流アマ名人、出水摩子(いずみ・まこ)さん。今度のアマ女王戦の挑戦者です」