しかしそんなこともすぐに頭の片隅に追いやられる。いつしか雨脚が衰えていたこともあり、客足がさらに伸びてきた。来是はもう解説に耳を傾ける余裕もないほど、満員御礼状態のフロアを忙しく行き来した。
そして午後六時に差し掛かる前に、戦いに終止符が打たれた。
「……あ、ここで伊達棋聖が投了したようです」
財部が言うと、いくつもの溜息が重なった。どうやら客たちの大半は、伊達清司郎ファンだったようだ。
棋聖戦は一日制で、持ち時間は四時間。七大タイトル戦の中ではもっとも短いが、それでもこの終局時刻はやや早いと言えそうだ。双方とも持ち時間を使い切っていない。すなわち悩む時間がそれだけ短かった、あまり悩む暇もなく、伊達は劣勢に陥った……ということである。
「うーん、師匠の研究は挑戦者に及ばなかったか」
「伊達さん、近頃は最新の研究をしてないって噂だけど?」
近くの客に尋ねられて、一番弟子は少し渋い顔をする。
「まあ、まったくやっとらんってことはないと思いますよ。今一番ホットな戦型やし、初戦くらいは相手の土俵に乗ったろうって考えもあったんやないかなーと」
「ともあれこれで、我那覇挑戦者の先勝ですね。このまま勢いに乗るのか、伊達棋聖が巻き返すのか、期待したいところです」
「はい、ありがとう! みなさん拍手!」
高遠が大きな拍手をすると、皆も一斉にあとに続いた。財部は大きな仕事を成し遂げた充実感と解放感を、満面に浮かべていた。
客が伝票を持って次々と席を立ち、依恋たちも帰宅の準備を整える。金子と山里はそれほどでもないが、依恋はさすがのリッチぶりで、売上に貢献してくれという頼みをかなり聞いてくれた。そんなに甘いものを食べて大丈夫かと言ったら、全部胸の栄養になると本気だか冗談だかわからない答えを返されたのだった。
「んじゃね、後片付け頑張って」
「いい写真は撮れたか」
「バッチリ。将棋ファン、きっと増えるわ」
「依恋先輩、このままどこかファミレスでも行きません?」
「ああ、いいわね。金子さんはどうする?」
「お供しますとも!」
と、依恋はまだ興奮冷めやらぬ財部に歩み寄っていく。
「とても素晴らしい解説でしたわ。また機会があれば見に来ますから」
「あ、ありがとうございます! 碧山さんにそう言っていただけるなんて、光栄です」
「だってさ! えへへ」
依恋が財部のことを気に入ったのは、今日一番の収穫かもしれなかった。ファンとは違うかもしれないが、プロに好感を持つ人は増えれば増えるほどいい。
そうしてすべての客は帰っていった。――ひとりを除いて。
「どう? 御堂さん」
「この形に先手が飛び込むのはまずいって結論になりそうな……。いやいや、何かあるはずや。すいません高遠先生、もうちょっとだけ検討させてくれます?」
御堂は卓上盤に向かってうんうんと検討している。何時間も見ていたのに、この熱心さ。プロの将棋体力は違うなと思い知らされた。
その向かいに財部も座った。
「私もこの形、先手は避けるべきと思います」
「そっかー。うん、そっかー。でもこうしたらどうやろ」
「それはこうで……」
「むむ! 参ったなあ」
来是と高遠が後片付けを終える頃には、短い検討は終わっていた。当たり前だが結論は出ない。今後はっきりした結論が出るのか出ないのか、それは誰にもわからないことだった。
「それにしても財部さん、なんでLPSOでデビューしよう思たん?」
「はい?」
「うちも当時は一将棋ファンやったから、あの騒動には心を痛めたわ。何やってんねんって感じで。最初から連盟でデビューしてれば……なんて、まあ余計なお世話やろうけど、そんなこと思ったわけ」
御堂は思ったことをはっきり言うタイプらしい。財部はわずかに頷くだけだった。
――栄えあるデビューを飾る。棋士として祝福されるべきことが事の発端だった。
将棋連盟から分離独立したLPSOにとって、財部は待望の新人だった。彼女たちが独自に主催する棋戦において、かつてタイトルを獲得したこともあるベテランを破るなど、若くして才覚を現していた。そしてLPSOは自信を持って彼女をプロ認定した。
しかしその認定基準は、将棋連盟とは異なるものだった。
「あなたたちが定めるプロと、我々が定めるプロは違う」
それを理由に、連盟主催の棋戦においてはそれまでと変わらずアマチュア扱いされた。この措置に当時のLPSO代表は反感を抱き、連盟やスポンサー批判に留まらず、対局のボイコットという事態に発展。将棋界を揺るがし、大手メディアも大々的に報道する醜聞となってしまったのである。
それから紆余曲折あり、両団体は歩み寄った。財部は特例で連盟からもプロ認定され、今では連盟の女流たちとも互角以上に渡り合う、立派な棋士に成長している。
来是は当時、将棋を好きでも何でもなかったから、こんな事件のことは知らなかった。しかし事実関係をまとめたサイトを見ただけでも、悲しい気持ちになった。なぜ将棋を愛し、一生の仕事にしようと決意した者同士が、そんな形で衝突しなければならなかったのか。
何よりこの一連の騒動に、財部本人は何ひとつ非がない。多くの将棋ファンが憤り、心を痛めただろうが、彼女の心痛はいかほどのものだったろうか。
「私が子供の頃、初めて通った将棋教室が、LPSOの先生が講師のところだったんです。将棋連盟の道場よりも家から近い、ただそれだけの理由でした。だからプロになりたいって思ったときも、その先生に相談して、じゃあうちからどうって言われて……まあ、プロの仕組みとか、よく知らなかったんですよね。とにかくデビューできるならそれでいいって」
「まあ、普通ならそれでも問題ないよなあ。誰があんなことになるなんて想像できるかいな。高遠先生はどない思いました?」
「……実は私も、連盟を離れてLPSOの旗揚げに参加する予定だったのよね」
「え、そうだったんですか?」
「春張くん、そもそもなんで女流棋士が独立しようってことになったか、知ってる?」
「……立場とか待遇の改善を求めて、ですよね」
「そう。女流棋士だったら、誰もが胸の内に秘めていたことよ。同じ組織のメンバーなのに、男性と対等な発言権がない。対局料や賞金額もはるか下。……もちろん女流全体のレベルが、男性たちに及ばないのが根本の原因だわ。君だって、弱い人より強い人を支持したいし、報われるべきだって思うでしょ?」
「まあ……強さがプロの存在価値だし。いやでも、うーん……」
本当にプロは強さがすべてだろうか。だとしたらアマチュアや将棋ソフトに負けるプロとは? 来是はなんだかわからなくなってきた。
「女性の力で将棋界を華やかにしたい……それが女流制度の始まり。最初から、棋力はそんなに問われていなかった。その影響が現在まで続いていると言えるわね。とにかく女流の棋力っていう根本的な問題はあるけれど、私を含めた多くの人たちが、連盟を離脱して女流の地位向上を求めたの。男たちの意向に左右されたくない、女だけでもやっていけるはずだってね。でも現実には難しかった。LPSO入りを止めたのも、旦那から説得されたからなのよ。上手くいくとは思えないって。実際、そうなったわ」
「上手くいっていない……高遠先生のおっしゃる通りだと、私も思ってます。私以外にLPSOでデビューした人、いませんから」
財部の落ち着いた言葉に、御堂は腕組みして深く頷いている。
「ああ、新しい人が入ってこない、それが一番の問題や。マジでどないするの。……うちはな、プロの団体が連盟以外にあってもいいと思ってる。むしろそれが業界のためには健全かもしれん。でも、上手く運営できてればの話や。少なくとも……たったひとりの若い人に期待の重圧がかかってるような状況は、健全とは思えへん」
「御堂さん、いい人ですね」
唐突に、それも穏やかな笑顔で言われて、御堂は面食らった。
「な、なんや?」
「本心から私たちを心配してくださってるのがわかりますから。同業者でそういうことを真正面から言ってくださったの、御堂さんが初めてです」
「お、おう……。そう言われると、調子狂うな」
「私たちがこれからどうするべきかは、正直わかりません。でも確かなのは……私は私のできることを精いっぱいにやっていくということです。頑張っていれば、絶対に報われる日は来ます。そのことを今日、証明できましたよ」
財部の視線が来是に向いた。
「碧山さんに会えたのは、今日一番嬉しいことでした」
「……財部さん、そんなにあいつのことが気に入ったんですか?」
「はい。年上であっても年下であっても、素敵な女性は尊敬します。特に、華のある女性は。彼女、すごくキラキラしてるじゃないですか」
「そりゃまあ、見た目は可愛いですけど……」
「見た目だけじゃないです。目標をどこまでも高く掲げていて、前向きに生きているって感じがします。私もああいう風にならなきゃって思ってるんです。……それじゃあ、今日はこのへんで。高遠先生、ありがとうございました」
「ええ、お疲れさま。また近いうちに依頼したいわ」
「よろしくお願いします。御堂さん、次は公式戦でお会いしたいですね」
「……せやな。けどLPSOのアピールに利用されるつもりはないで?」
財部が外に出ると、御堂も少し経ってから店をあとにした。
店内の最終チェックも済み、ようやく来是は肩の力を抜くことができた。重たい話題に触れたせいか、いつもより疲れた気がした。
「あの碧山さん、私もすごくいい子だと思ってるわよ」
「いやいや、先生までそんなこと……」
「ねえ、彼女も将棋アイドルとか、なったりしないの?」
またいきなりすぎる問いだった。
依恋が紗津姫と同じ将棋アイドルに。そんなことは想像もしたことがない。来是はすぐに首を横に振った。
「伊達名人は神薙先輩のプロ並の棋力に注目して、将棋アイドルになってほしいって言ったんですよ。だから依恋じゃ無理ですって」
「そう? 棋力がそれほどなくても、将棋一筋じゃない人でも、悪くないんじゃないかしら。だって将棋ファンの大半は、そういう人たちだもの」
「ん……んん?」
「この店で、まさにそういう人たちと接しているからわかるの。将棋の上手い人は、上手くない人たちの気持ちを、完全にはわからないって。私はどうしてもプロとしての考えが入ってしまう。神薙さんも高段者である以上は、そういう束縛から逃れられないと思うわ。その点、碧山さんは初段くらいでしょ? それくらいのほうが、特に観る将のファンは親しみを持ちやすいかもしれないじゃない」
――神薙紗津姫は、将棋アイドルとして完璧ではない?
バカな、と思った。あの人以上に、将棋普及に貢献できるアマチュアなどいるはずがない。
しかし頭の片隅に、ひとつの光景がよぎる。
可愛い服とアクセサリーを身につけて将棋を指す依恋。それを見た全国の女子高生が、彼女をカリスマと崇めて、ファッション感覚で真似するようになる……。
突飛にもほどがある想像。しかし来是の頭から、その華やかな光景はなかなか消えてはくれなかった。